祖别命
外观
祖别命 | |||||||||||||||||
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国家 | 日本 | ||||||||||||||||
时代 | 古坟时代 | ||||||||||||||||
主君 | 垂仁天皇 | ||||||||||||||||
假名 | おやわけのみこと おちわけのみこと | ||||||||||||||||
罗马拼音 | Oyawakenomikoto Ochiwakenomikoto | ||||||||||||||||
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祖别命(日语:祖別命/おやわけ の みこと/おちわけ の みこと Oyawake no mikoto/Otiwake no mikoto,?—?)是记纪记载的日本古代皇子,父亲是垂仁天皇。
名称
[编辑]祖别命是《日本书纪》和《先代旧事本纪》“天皇本纪”的称呼[1][2],《古事记》称其为 落别王 [3](おちわけ の みこ/おとしわけ の みこ),《新撰姓氏录》和《先代旧事本纪》“国造本纪”分别称其放知别命和意知别命。[4][5]
系谱
[编辑](名称以《日本书纪》的称呼为先,括号内的是《古事记》等的称呼)
祖别命是第11代垂仁天皇与山背大国不迟(山代大国之渊)之娘苅幡户边(苅羽田刀弁)之子。同母弟是五十日足彦命(五十日带日子王)、胆武别命(伊登志别王)。
按《先代旧事本纪》“天皇本纪”记载,诞下祖别命的垂仁天皇之丹波道主王之女真砥野媛,同母兄为磐撞别命(磐冲别命,记纪则为异母兄弟)[2]。另外在“国造本纪”则记载了其三世孙是武伊贺都别命[5]。
祖别命的妻子和子女则未有文献记载。
墓
[编辑]文献未有记载祖别命的墓地位置,宫内厅也没有其指定墓地。
传承上,祖别命的墓地是位于爱知县丰田市久保町儿之口社内的前方后圆坟[6],该处竖有刻上“衣之君落别王命陵”的石碑。
后裔
[编辑]氏族
[编辑]在《古事记》中,祖别命子孙是“小月之山君和三川之衣君”[3],而《新撰姓氏录》则是“小槻臣”[4]。
- 小月山君(小槻山君)
国造
[编辑]参考资料
[编辑]- ^ ‘日本书纪’垂仁天皇纪。
- ^ 2.0 2.1 ‘先代旧事本纪’“天皇本纪”垂仁天皇条(‘国史大系 第7巻’ (页面存档备份,存于互联网档案馆)(経済雑志社、1897年-1901年、近代デジタルライブラリーより)183コマ参照)。
- ^ 3.0 3.1 ‘古事记’垂仁天皇记。
- ^ 4.0 4.1 ‘新撰姓氏录’小槻臣条(‘群书类従 第十六辑’ (页面存档备份,存于互联网档案馆)(経済雑志社、1898年-1902年2版、近代デジタルライブラリーより)75コマ参照)。
- ^ 5.0 5.1 5.2 ‘先代旧事本纪’“国造本纪”伊贺国造条(‘国史大系 第7巻’ (页面存档备份,存于互联网档案馆)(経済雑志社、1897年-1901年、近代デジタルライブラリーより)216コマ参照)。
- ^ 児ノ口社境内の由绪书。
- ^ 7.0 7.1 本居宣长‘古事记伝’二十四之巻(‘古事记伝 第3’ (页面存档备份,存于互联网档案馆)(日本名著刊行会、1930年、近代デジタルライブラリーより)248コマ)。
- ^ 8.0 8.1 ‘国造制の研究 -史料编・论考编-’(八木书店、2013年)p. 164。
参考文献
[编辑]- 日本古代氏族人名辞典 普及版. 吉川弘文馆. 2010. ISBN 9784642014588.