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台湾周游唱歌

维基百科,自由的百科全书

台湾周游唱歌》发行于明治43年(1910年)2月20日,为日治时期台湾总督府台湾实施歌唱教育的教材。该曲由宇井英作词,高桥二三四作曲,歌词以和歌的七五调写成,共有90节,介绍台湾地名产物、旧刹古庙、名胜史迹、史话等。

日文原歌词与中文翻译

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1

国光四海に かがやきて
东亜の空に をなせる
我が日の本の 新领土
台湾島たいわんとうを さぐり见ん

国家的光芒在四海闪耀着
称霸了这片东亚的天空
一起来认识我们日本的新领土
来周游这座台湾岛吧

2

南北长さ 一百里
めぐりは二百九十余
小岛あわせて その广さ 
九州と ほぼひとし

南北长度一百里
环岛一周大约290多里
加上附近的离岛的话
面积与九州差不多大

3

山に金银 海に塩
製茶せいちゃ製糖せいとう 果実類かじつるい
水田みずたに稲は 二度みのる
げに帝国の 無盡蔵むじんぞう

山有金银、海有盐
能制茶、制糖以及丰富的水果
水田里的稻子一年能收两次
实为帝国的大宝库

4

基隆港きいるんこうの あさぼらけ
のぼる朝日の てりそひ
かがやきわたる そのながめ
フオルモサの名も ただならず

基隆港的日出时分
升起朝阳照亮之下
从这闪耀的光芒中眺望出的景色
福尔摩沙的美名果然名不虚传

5

最北門さいほくもんの 鎖鑰さやくにて
母国ぼこくに渡る 唯一ゆいつ
要津ようしんなれば朝夕に
出船入船 绝え间なし

作为北方的最重要门户
要是成为唯一与本土往来
最重要的港口的话
船舶从早到晚都会十分繁忙的吧

6

いざや西部を めぐらんと
汽笛一声 进み行く
八堵はっと七堵しちとの 次は五堵ごと
水返脚すいへんきゃくの 小市街

接下来要往西部看下去啰
随着汽笛的声音前进吧
八堵七堵 然后是五堵
接着就到水返脚的小市街

7

附近の山に 石炭せきたん
多くづるを 语りつつ
南港なんこう 錫口しゃくこう たちまちに
はや台北たいほくに きにけり

据说在这附近的山区
出产很多很多的煤矿
经过南港锡口后才一转眼
很快就要到台北

8

四面は山に かこまれて
地勢ちせい京都に さたり
おのづからなる 城壁じょうへき
げに萬世ばんせいの かためなり

台北四面都被山包围着
地势跟京都十分相似
自然形成的这道城墙
真是能流传万事的坚固防备

9

君が御稜威みいつに 高砂の
浦回うらわの风もをさまり
ここにひらけし 総督府そうとくふ
文武ぶんぶ機関きかん そなわれり

在如此的威势之下
高砂岛海湾的海风也尽收其下
坐落在这里的总督府
文武官员跟部会都齐聚在此

10

市街の規模きぼは 宏大こうだい
道路 平坦へいたん 如く
下水工事げすいこうじに いたるまで
水も もらさぬ たくみなり

城市街道的规模十分宏大
道路也非常平坦
下水道工程四通八达
滴水不漏非常厉害

11

いく百年后の 膨張ぼうちょうを 
かねてはかりて さだめた
市区改正の をゝしさよ
想ひやるだに たのもしや

连数百年后的扩张发展
在计划的时候都已经兼顾考虑了
市区更新后的雄伟景观
这样长远的思考真是可靠

12

支线に乘りて 圓山まるやま
台湾神社 をがみつ
基隆川きいるんがわを うちわたり
昔をしのぶ 剣潭寺けんたんじ

乘着支线来到圆山
就能看到台湾神社
基隆河所围绕的是
充满怀古的剑潭寺

13

つとに学者の 淵藪えんそう
となへられたる 士林しりんには
遭難そうなん六氏ろくしの 碑石ひせきあり
芝山巌頭しざんがんとう 香をとどむ

因为过去学者辈出
而被称为士林的此地
立着遭难六氏的纪念碑
芝山岩上仍为他们上著香

14

硫黄ゆわういだす 北投ほくとう
音にきこゆる 温泉場おせんば
ゆあみする人 游ぶひと
常に绝えずと 闻くぞかし

盛产硫磺的北投
是远近驰名的温泉场
来这里泡汤或游玩的旅客
听说人潮总是络绎不绝

15

左に高きは 大屯山だいとんざん
右に低きは 紗帽山しゃぼうん
もながる山の その奥に
ひいでで见ゆる 七星山しちせいざん

左边比较高的是大屯山
右边比较低的是纱帽山
位于群山之中最里面
最秀丽出众的那座就是七星山

16

江頭かんたう过ぎて 川ぎしに
沿ひつゝ行けば 淡水港たんすいこう
河畔かはんをかに いかめしき
建物たてもの多く そびえたり

越过江头沿着河岸前进
一直走就到了淡水港
在淡水河畔的山丘上
许多建筑物耸立着

17

屋上おくじょう高く ひるがへる
同盟国どうめいくの はたじるし
问はぬさきにも 知られたり
大英国の 领事馆

在高高的屋顶上随风飘逸著
是我们盟国的旗帜
就算不用说大家也知道
那是大英帝国的领事馆

18

三百年の その昔
萬里ばんりの波を しのぎ来て
武威ぶいふるひし イスパニヤ
三貂角 此処ここ

距今三百多年前
横渡万里的海浪而来
雄壮威武的西班牙人
在这里建了圣地亚哥城

19

のちにオランダ きたりしが
鄭氏ていし(かは)りて これに
栄枯えいこはうつる のならひ
英雄えいゆうのあと 今いづこ

虽然荷兰人随后而来
郑氏又取而代之占领了这里
兴盛衰败本就是世间常理
英雄的遗迹如今又在哪里

20

ろうに登りて 見渡みわたせば
舳艪じくろつらねて うちつど
唐船もろこしぶねかず知らず
観音山下かんのんざんかの如し

爬上高楼向外看去
舳橹交错聚集于此的
是数不清的唐船
观音山下景色如画

21

此処の港を 船出して
海路かいろわずかに 二百余
その日のうちに 対岸たいがん
廈門アモイの港に 著かるべし

从这里乘船出港的话
仅仅航出两百多海里
就能在一天之内
到达对岸厦门的港口了

22

再び帰りて 本线に 
うつればたちまち 艋舺マンカ驿
新店川しんてんがわの 铁桥も
またたくひまに うち渡る

接着再次回到我们的主线上
一下子就到了艋舺车站
新店溪的铁桥的话
也是一瞬间就到了哟

23

富豪林氏の 邸宅の
いらかつらねて かまへたる
枋橋ハンキョウ越ゆれば 樹林じゅりんなり 
山仔脚サンシキャク経て鶯歌石オウカセキ

富豪林家园邸
屋顶的瓦饰建得长长一排
过了枋桥之后就是树林
然后经过山仔脚就到莺歌石

24

鸟のかたちに よく似たる
巨石はたてり 山腹に
郑军 炮を うちし时
かしら欠けぬと いひ伝ふ

莺歌石的样子像一只鸟
是一块位在山腹的鸟形巨岩
传说中是郑氏军队开炮的时候
把莺歌石的鸟头给打断了

25

三角湧さんかくゆうは この奥へ
一里あまりの 小市街
製脳せいのう事业 见ん人は
さらに山路を 辿るべし

从这里再走下去
就是约一里长 叫做三角涌的街区
对制脑业没兴趣的人啊
就继续从山路前进吧

26

桃園はるとうえんの 楽郷らくきょう
游ぶもうれし 秋は又
大嵙崁だいこかんなる 山奥に
奇巌きがんを见るも おもしろし

春天到桃园美地游玩很愉快
秋天来也是一样有趣哟
再到大嵙崁的山里面
就会看到在险峻两岸及深谷河川上

27

蕃界ばんかい近く 踏み入れば
両岸けはしき 谷川たにがわ
とうにて造れる吊り桥の
あやふくかかる 所あり

接近蕃界了哟 如果跑进去的话
就会看到在险峻两岸及深谷河川上
有座用藤搭造的桥
这里可是很危险的地方呢

28

北部诸山の 生蕃せいばん
防ぐためとて 要所には
铁条网を 张り渡し
隘勇あいゆう线を 设けたり

此处是一个重要的要冲
防备着在北部群山生活的生番
架起了长长的铁丝网
设立了所谓的隘勇线

29

崁仔脚かんしきゃくをば 后にして
中壢街ちゅうれきがいを过ぎ行けば
四面の畑は みな茶の树 
安平あんぺい镇の 制茶场

在离开崁仔脚之后
如果穿过了中坜街道
可以看到四面的田里都种满茶树
这里就是安平镇的制茶厂

30

本岛特产烏龍ううろん
なほも红茶の 実况を
知らんと想ふ 人あらば
必ずくぐれ この门を

本岛的特产茶是乌龙茶
一如既往地 在制茶的时候
如果有不知道或是好奇的人
肯定都会进到这道门里来看哟

31

楊梅壢ようばいれきより大湖口たいここう
紅毛田こうもうでんを过ぎ行けば
はや著きにけり 新竹に 
ここは昔の 竹塹埔ちくざんほ

杨梅坜的旁边就是大湖口
只要穿过了红毛田
马上就会抵达新竹
这里就是以前的竹堑埔

32

しん雍正ようせい元年に
淡水廰たんすいちょうを置かれけり
城壁の迹 なほ残り
舊刹きゅうせつ古廟こびょう亦存す

清代雍正元年的时候
设置了淡水厅
现今还能看见当时竹堑城的遗迹
那时的旧刹古庙也都还在呢

33

市街の西方 约半里
尖筆山せんぴつざんのいただきに
北白川の 宫殿下
御露営ありし 遺跡いせきあり

从市区出去往西约半里的地方
坐落在此的是尖笔山
北白川宫亲王殿下
当年的阵地遗址仍然存在

34

新埔しんぽは蜜柑の 本场にて
北埔ほくぽに椎茸 多く出づ
香山こうざん中港ちゅうこう过ぎぬれば
次は造橋ぞうきょう後壟こうろう

新埔是蜜柑的大产地
北埔盛产很多的香菇
香山中港一路走下去
接着就是造桥后垄

35

后垄溪の 铁桥を
渡れば此処は 苗栗びょうりつ
石油の产地 出礦坑しゅっこうこう 
これより四里の 奥にあり

跨过了后垄溪的铁桥之后
抵达的地方是苗栗
有出产石油的出矿坑
就在这里过去四里的地方

36

銅鑼湾どうらわん 三叉河さんさほ 後里庄こうりしょう
米の产地と 名も高き
葫蘆墩コロトン驿の近傍きんぽう
製麻せいま会社を 见て行かん

铜锣湾三叉河后里庄
都是很有名的稻米产地
到了葫芦墩车站
就去看看附近的制麻公司吧

37

此処まで数里の その间
地勢ちせい嶮岨けんその その上に
大安たいあん大甲たいこう二溪あり
箱根のトンネル 想ひやる

到此地之间这数里的范围
不但地形十分的险峻
还有大安溪大甲溪这两条溪流过
让人回想起了箱根的隧道呢

38

林投なあたう编みて作るてふ
淡水帽の产地なる
大甲たいこう 通宵つうしょう 宛里えんりなど
海辺うみべに近き 土地にあり

再来这个地方
是以林投叶编成的淡水帽产地
大甲通宵宛里这一带
都是离海边非常近的地方

39

潭仔墘たんしけん経て その次は
中部一なる 台中たいちゅう
清朝しんちょうかって この土地に
台湾府をば 置きたりき

在过了潭仔墘后的下一站
就是中部的第一站台中
过去清朝曾经在这块土地上
设置了台湾府

40

明治四十一年に
はじめてりし 铁道の
全通式を げたりし
此処の公园 ながめよし

在明治四十一年的时候
铁路终于首次盖完了
当时还举办了铁路全通发表会
从这里的公园望去的景色很美哟

41

陶器とうきいだす 南投なんとう
軽便けいべん铁道 かれたり
本岛无二の 别天地
埔里ほり社はなほも 奥と闻く

往出产陶器的南投前进
这里铺设了轻便铁路
在这个岛上无处可比的世外桃源
埔里社就在这里

42

流石さすがたけき 霧社蕃むしゃばん
馘首かくしゅやいば うちすてて
厚きめぐみを したい来る
ばん产物の 交换所

就连勇猛过人的雾社
也放下了出草砍头的刀刃
对丰厚的物资和产物慕名而来
来到这里的番产物交换所

43

日月潭じつげつたんの 勝景しょうけい
蓬莱ほうらい山も よそならず
绿のかげには 鸟歌ひ
瑠璃るりの水には 魚躍うをおど

日月潭的美景
简直就跟蓬莱山不相上下
小鸟在鲜绿的树影下唱歌
鱼也跃出琉璃般碧蓝的湖水

44

烏日うじつ过ぐれば 大肚たいとなり
米の集散しゅうさんおびただし
ここに河あり 大肚溪たいとけい
水に游ぶは 水牛すいぎゅう

只要过了乌日就是大肚
大量的米都在这里集中转运
此处有条溪叫大肚溪
在溪水里游憩的是水牛哟

45

龍車りゅうしゃに向かふ 蟷螂とうろう
をの微塵みじんに くだかれし
彰化しょうかの东 八卦山
中台ちゅうたい平野 ひとながめ

想要挡车的螳螂呀
小小的螳臂被压到灰飞烟灭[1]
彰化东边的八卦山
在山上能将彰化平原既收眼里

46

茄苳脚かとうきゃくの その次に 
バナナ 朱欒ザボンの产地なる
員林いんりん过ぐれは 社頭しゃとうなり
田中央でんちゅうおう経て二八水にはちすい

茄苳脚再往下走
就是香蕉和柚子的产地了
再来过了员林之后就到达社头
再取道田中央就到二八水

47

全岛一の 大河たいかとて
音に闻こえし 濁水溪だくすいけい
大雨だいう至れば たちまちに
平野へいや変じて 海となる

全岛第一大的河川
还听到溪水声呢 浊水溪
在大雨来袭的时候 只要一转眼
这片平原就变成一片汪洋啰

48

林内りんない过ぎて 車窓しゃそうより
かすかに见ゆる 新高にひたか
山の高きは 日本一
明治のみかど 名をたま

过了林内之后往车窗外看去
隐约可以看到新高山
山的高度是日本第一
所以明治天皇把它命名为新高山

49

雲林うんりん今は 斗六街とろくがい
土匪どひのさわぎに 大方おおかた
兵火へいかさいに かかりにき 
他里霧たりむの次は 大莆林たいほりん

现在云林斗六街这一带
因为有着许多土匪的骚乱
所以导致很多民众卷入战火罹难
接着他里雾的下面是大埔林

50

打猫たみょうの西方 三里なる
北港街ほくこうがいの 媽祖宮まそきゅう
四方よもの信仰 厚きこと
本岛一と 闻こえたり

打猫西方三里的地方
北港街妈祖庙
汇聚各方信众香火鼎盛
据称是全岛第一的信仰中心

51

林爽文りんそうぶん騒乱そうらん
时のみかどが 住民じゅうみん
義勇ぎゆうみして つけられし 
嘉義かぎのほまれは 碑に残る

在发生林爽文事件之后
当时乾隆为嘉奖当地助清守城的忠意
于是将这里改名 称作嘉义
嘉义的美名还仍留在石碑上

52

此処に至らば 农会の
苗圃びょうほに足を 运ぶべし
小河をがわめぐれる 丘の上
见渡すかぎり 檳榔子びんろうじ

既然来到了此地
就到农会育苗的田地去逛逛吧
在被小河围绕的山丘上
一眼望去全都是槟榔

53

大森林だいしんりんの 阿里山ありさん
これより数里 奥にあり
えだまじふる 木々きぎかげ
ひる犹暗く ものすごし

有着大片森林的阿里山
就在这里进去数里的地方
枝叶横密 树影交织
白昼如夜 景色十分惊人

54

铁道线路の 右侧に
立つる目標めじるし见おとすな
北回帰線きたかいきせん 
このあたり はや热帯の 客となる

在铁路的右边
千万别漏看了这座标志哟
这里就是北回归线经过的地方
马上就要进入热带地区了

55

これより南部 おしなべて
甘蔗かんしゃの畑 打ち続き
制糖会社 そこここに
煙突えんとつ高く きそい立つ

现在开始就是南部地区了
长长的甘蔗田一路蔓延
制糖会社就在这个地方
高耸的烟囱四处林立

56

水堀頭すいくつとうより後壁寮こうへきりょう
新營庄しんえいしょう西方せいほう
塩水港えんすいこうの 市街あり
布袋嘴ほていしよりは 塩产す

水崛头的附近是后壁寮
新营庄的西边过去
有着盐水港跟街道
布袋嘴附近是盐的产地

57

林鳳営りんほうえい経て 蕃仔田蕃仔田ばんしでん
湾裡わんりを过ぎて 新市街
大目降たいもくこうは この东
糖业试験所 设けらる

穿过了林凤营番仔田
过了湾里就看到新市街
大目降在此之东
那里设立了糖业试验所

58

南部のみやこ 台南たいなん
本岛中に ふるくより
开けし地とて 人多く
名所舊跡めいしょきゅうせき 亦多し

南部的首都台南
是岛上古色古香的代表
因为是开台之地所以人口众多
也有许多的名胜古迹

59

陆军衛戍えいじゅ病院は
オランダ人の きずきたる
赤崁楼せきかんろうの ありしあと
三層楼閣さんそうろうかく そびえたり

陆军卫戍医院
是以前荷兰人在此建成
叫做赤崁楼的遗留建筑
是耸立于此的三层楼房

60

鄭成功ていせいこうを まつりたる
延平王えんぺいおうの やしろあり
领台以后に 改めて
開山かいざん神社と 称せらる

这里祭祀著郑成功
有着延平郡王祠堂
在日本领台之后
这里就改称为开山神社了

61

義烈壮烈ぎれつそうれつ 母 刀自とじ
大和魂やまとだま うけつぎて
社稷しゃしょくのために つくしたる
君がほまれは 千代朽ちよくちず

继承了像母亲大人一样
英勇壮烈的大和魂
为了社稷鞠躬尽瘁
你的名声肯定会世代流传

62

魁斗山上かいとさんじょう 五妃ごひの墓
寧靖ねいせい王の きさきたち
みさをまもりて この土地に
果てぬと闻くも あはれなり

魁斗山上的五妃墓
是明宁靖王朱术桂的五个妃子
为了守住贞洁而在这块土地上殉死
让人听闻了也不禁感到悲伤

63

全台首学ぜんだいしゅがくと しるしたる
大成殿たいせいでんの 建物たてもの
公学校に てられて
今犹 吚唔いごの 声を闻く

被称为是全台首学
台南孔庙里的大成殿
现在里面设立的公学校
还可以听见读书的声音呢

64

せんしてここに 台湾の
王と名のりし 朱一貴しゅいっき
住みし昔の 宮居みやゐあり
今法院を 此処に置く

曾经僭称名号
自立为王的鸭母王朱一贵
他以前住的王居就在此地
现在是法院的所在地

65

そぞろに涙 そのかみを
しのびまつるも かしこしや
北白川の宫殿下
ここにみまかり たまいけり

不自觉的眼泛泪光 想到那个时候
那盛大庄严的追思纪念奉献
北白川宫能久亲王殿下
就在这里献出了他的生命

66

君のみことをうけたまひ
近衛このゑの兵を ひきつれて
岛をたいらげ 给いたる
親王みこのみいさを 忘るなよ

接下了天皇的敕令
戴上了近卫师团的士兵
平定了这个岛上的动乱[2]
不能忘记亲王的威光呀

67

名は安平あんぴんと 闻こゆれど
みなと次第に うづもれて
大船たいせん岸に つながれず
風波ふうはを凌ぐ 便たよりなし

人说这里叫做安平
港口却渐渐淤积被埋了起来
大船没办法在这个地方靠港
贫穷的人们 乘风破浪去吧

68

赤崁せきかん 城趾じょうし大榕樹だいようじゅ
はるかおきより ながめらる
海をくひと このをば 
目当てとなして 往来おうらい

赤崁城遗址的大榕树
在离岸很远的地方也能看得见
要去海边的人就把这棵树
当作往来的基准

69

これより海路かいろ五十二 
澎湖島ぼうことうなる 媽宮港まきゅうこう
みなとのうちは 水深く 
大艦巨舶たいかんきょはく とどむべし

从这出海五十二海里
就到了澎湖岛妈宫港
港口里的水非常的深
大型船舰都能够在这里停泊

70

更に汽车にて 中洲庄ちゅうしゅうしょう
車路墘しゃろけん过ぎて大湖街たいこがい
半路竹はんろちくて 阿公店あこうてん 
橋仔頭きょうしとうより 楠仔坑なんしこう

接着改搭汽车到了中洲庄
过了车路墘 到了大湖街
半路竹走下去是阿公店
桥仔头旁边是楠仔坑

71

东北指して 行くときは
蕃薯いもに名を得し 蕃薯寮ばんしょりょう
樟脳しょうのう出だす 甲仙埔こうせんほ
急ぐ旅とて 立ち寄らず

朝东北方的方向走去的话
是因为蕃薯而得名的蕃薯寮
生产樟脑出名的甲仙埔
因为旅程赶时间就不过去了

72

舊城きゅうじょう过ぎて 打狗港たかおこう
縦貫じゅうかん铁道 ここに
商船しょうせん常に輻輳ふくそうし 
百貨ひゃくか日々ひびに 山を为す

过了旧城就是打狗港
纵贯铁路就在这到了尽头
商船总是在此汇聚喧腾
各式各样的商品每天都堆积如山

73

なほも支线に 乘りかへて
三塊厝さんかいせきを 通り过ぎ
をんらいパインアップル出づる 鳳山ほうざんに 
曹公圳うこうしゅうを 探るべし

这边再度改搭支线
接着穿过了三块厝
在出产凤梨的凤山这里
就去看一看曹公圳

74

後庄こうしょう越えて 九曲堂きゅうきょくどう
一里东に 阿緱街あこうがい
下淡水しもたんすいの 河口かはぐちに 
東港とうこうといふ 港あり

过了后庄九曲堂
往东一里就是阿缑街
下淡水的河口处
有个叫东港的港口

75

これより五里の 海上に
かすかに见ゆる 小琉球しょうりゅうきゅう
长さは一里 はば半里
いづれのいへも 鹿しか

在距离这边五里的海上
隐约可以看到小琉球
小琉球长度一里 宽度约半里
家家户户都有在养鹿哟

76

枋寮ぼうりょう枋山ぼうざん楓港ふうこう
海辺うみべの路を 辿たどり行く
山はせまりて 海をせめ
波はげきして 岩を

枋寮枋山枫港
沿着海边的道路一直走下去
高山与海之间非常的狭窄
海浪非常的激烈 拍打着沿岸

77

車城しゃじょうそそぐ 四重溪しじゅうけい 
その川上かはかみの 石門せきもん
両岸 いはほ そば立ちて
恰も门の さまをなす

注入车城四重溪
在溪的上游有个石门
巨岩伫立在溪的两岸
形状恰好就像是一道门一样

78

明治七年 我が军が 
頑強がんきょうなりし 牡丹社ぼたんしゃ
はげしく攻めし 所なり
みちに记念の 碑をさぐ

明治七年时我方军队
向顽强的牡丹社发起强烈的攻势
当时的战场就在这个地方
经过就去找找当时的纪念碑吧

79

皇沢こうたく日々に うるほひて
まなびの庭に 蕃童ばんどう
われおとらじと つどひ来て 
御国みくに言叶の 花ぞ咲く

每天都感受到本国的恩泽
在教育的各地学校里
蕃童们争先恐后地聚集而来
日语的教育也在这开花结果

80

気候はいつも あたたかに
春の如しと 闻こへたる
恒春こうしゅん街に いたりなば
もとめて来たれ 胡蝶蘭こちょうらん

这里的气候无论何时都非常温暖
大家都说总是跟春天一样
到了恒春街这一带的话
当然就是被蝴蝶兰吸引来的吧

81

ここにて西部 はてぬれば
海路东岸 さぐらんと
たよりを待ちて 海浜かいひんの 
大板轆だいはんろくを船出せり

至此西部已经到底了
来探索东岸和海路吧
等着他乡来的货物啊
从海滨的大板辘出航去吧

82

バシイ海峡 へだてたる
ルソンと遥か 相むかふ
最南端の 鵞鑾鼻がらんび
大灯台を 设けたり

相隔着一座巴士海峡
吕宋岛在两端遥遥相对
在最南端的鹅銮鼻
设了一座大灯塔

83

鼻を まはりて 北方に 
船路をかへて 进み行く
海上远く 紅頭嶼こうとうしょ 
くもやまかと うすがすむ

转个方向朝向北方
改走海路继续前进啰
在远方海上有座红头屿
无论是山还是云 都被霞雾缭绕着

84

岛のめぐりは 九里あまり 
太古のさまを 见る如き
いと あわれなる 蛮民ばんみん
二千ばかりも 住むと闻く

绕着岛再走九里左右
景色样貌还如同上古时期一样
身受壮丽环境折服的蛮民
听说有两千人左右住在这里呦

85

やがて卑南ぴなんに 寄港きこうせり
台东一帯 未开の地
天與てんよ遺利いりは そのままに
人の来たりて 取るを待つ

抵达了卑南 先在这下船
台东这一带都是尚未开发的土地
上天赐予还没使用的权利
就这样在这里等着人来利用

86

黒潮に沿ひ 进みつつ
次に立ち寄る 花蓮港かれんこう
移民の计画 歩を进め
開拓かいたく事业 起こりたり

顺着黑潮继续往前进
下一个停站的地方是花莲港
移民的计划正顺利进行中
开拓的事业也即将展开了

87

これより沿岸 二十余里
几千尺の 断崖だんがい
海にせまりて 耸え立ち
船を寄すべき 所なし

从这里开始沿岸二十几里
长达几千尺都是断崖
高高的耸立在大海上
没有任何能让船靠近停泊的地方

88

蘇澚そおうの港に 船をすて
宜蘭ぎらんの平野を 横ぎりて
それより山路やまぢ け入らば
深坑しんこう地方に いたるべし

苏澚的港口回到陆地
横渡穿越过宜兰的平原
从这里往山路转进去的话
就到了深坑那一带呦

89

浜辺はまべの路を え行けば
三貂角さんしょうかくは右に出づ
领台えきまっさきに
近卫の军の 上陆地

越过了海边的路后
右手边就是三貂角了呦
领台战役最刚开始的时候
近卫军团就是在这里登陆的

90

これより元へ 帰る道
黄金こがねり出す 牡丹坑ぼたんこう
尚も瑞芳ずいほう 金瓜石きんかせき
宝の山は つらなれり

接下来就要回到起点了
开采出许多黄金的牡丹坑
还有瑞芳金瓜石
峰峰相连全都是宝山啊

参考文献

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  1. ^ 八卦山之役
  2. ^ 乙未战争